18日は敬老の日!
皆さん、何かしましたか~?
私は一日中おばあさんと一緒に居て色々おしゃべりしたり
一緒にお茶を飲んだりして、夜は家族全員&弟夫婦の家族と
一緒にバーベキューをしました~♪

なんと、バーベキュー、ガレージでやるのかと思ったら
部屋の中!!
ビックリしました!! 普通部屋でバーベキューって・・笑

しかも脂が多かったのか炭が多かったのか分からないけど、最初
いきなり ボ~~~! と火が出たんです笑

こんなん。
↓↓
BBQ.jpeg


危ない危ない!笑


そのせいもあったし、更に部屋の中だったということもあって
煙が部屋にこもってゲホゲホってなりました・・・笑


扇風機回して、部屋の窓を全部開けて・・・
それでも目に煙がしみて痛かったので、


じゃじゃじゃ~~~ん!!!


水泳用ゴーグル!!!!


そう、私は水泳用ゴーグルを目にはめて食べることを
思いついたのです~~!!

どこの怪しい人やねん!?みたいな笑

でもこれが結構評判よくて、みんなからは

「おまえ・・・実は頭が良かったんだな!?」

なんて言われました!

え?「実は」って何!?って思ったんだけど
まぁ気にしない笑

結局弟の嫁さんも一緒に水泳用ゴーグルをかけて
食べました笑


ってなわけで楽しい一日をおばあちゃんと過ごすことが
できてよかったです♪

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以下、思い出話。
長いし、真面目な文章になります。



私は、母方のおじいちゃんおばあちゃんは共に私が小さい頃に亡くなっています。
父方の方はおばあちゃんだけ健在。


小さい頃から父方のおじいちゃんおばあちゃんが大好きで、よく家に
遊びに行ってました。
(母方の方も行ってたんですけど、早くに亡くなられたんです)

帰るときなんかは大泣きして「帰りたくない~!」って叫んで
結局泊まらせてもらったなんてこと何回もあります。

おじいちゃんおばあちゃんも、私が耳が聞こえないということを
かわいそうだと思ってたみたいで、特に目をかけてかわいがって
くれていました。

家に遊びに行くたびに、
「いじめられてないか?」
「周りの人と仲良くできているか?」
「勉強は大丈夫か?」
とかとか色々心配してもらったものです。

大人になってからは、時々やんちゃをして親とケンカして家出も
何回かしてたんですけど、
家出するたびにこっそりおじいちゃんおばあちゃんの家に行って
「親とケンカしちゃった!内緒で泊めて!」とお願いして
こっそり泊めてもらったこともありました。
その時は夜突然押しかけて、寝ているところをチャイムで起こして
しまったにも関わらず、
「いいよ~!好きなだけ泊まっていきなさい!」って言って
その日の晩、心配したお母さんが
「そちらに行ってませんか?」って電話してきたんだけど
「さぁ、知らないねえ。友達のところじゃないのかい?」って
ウソを言ってくれたりもありました。

いっつもいつも、おじいちゃんおばあちゃんは私の味方になって
くれていました。
それがすごく嬉しかったし、大好きでしたね。


でもたった一つ、後悔していることが。

私、耳が聞こえないんですね。
それもすごく重いほうなんです。

それで、うまくしゃべることができないんです。

家族とか、何十年も前からの友達とかなら通じるんだけど、
いつも通じるわけではないし、家族であっても通じない時も普通にあります。

おじいちゃんおばあちゃんに対しては、毎日一緒に生活していたわけではなかったので、
私の発音はなかなか分かってもらえなかったんです。
でもおじいちゃんおばあちゃんはそれをすごく心配してくれて、
「もっと大きな声で言ったら伝わると思うよ。」
とか、
「分かってもらえなくてもどんどん声を出していきなさい」
とか色々言ってくれたんです。

その気持ちはすごく嬉しかったし、
やっぱり心配するだろうなっていう気持ちは理解できました。

でも、その時はそれがしんどかったんです。

心配してくれる気持ちは分かるし、私も自分の言っていることを
おじいちゃんおばあちゃんにも分かってもらいたいし、
それにもっとおじいちゃんおばあちゃんと話すことができたら
どんなにかいいだろうっていう気持ちはありました。

でも、それでも、話せないということがしんどかったんです。

それだけでなく、「別に話せなくてもいい、声だけが全てじゃない」
という気持ちもありました。
全て声で話すのが大事なのではないし、言い換えれば、発音がうまく
なることが全て良いのではない。
発音が下手でもいいじゃないか、という気持ちもありました。

それで段々、おじいちゃんおばあちゃんとあまりしゃべらなくなっていったんです。
話しかけられたら話すけど、自分からは話さないみたいな。

それで家に遊びに行っても、一言も話さないときもありました。


そのうち、大人になるに従って、

自分が発音が下手だっていう事実は一生変わらないし、
そういう自分を受け入れて認めて、その上で自分なりに生きていくことをこれから考えないといけないなと思い始めていたんですね。

それでその時からは、筆談という方法でおじいちゃんおばあちゃんと
話すようになったんですけど、
筆談というのが更に心配をかけたみたいで。

筆談は大変だろう、それだけじゃ世の中を生きていくのは大変だよ、
とか色々心配されちゃいました。

どうしても声で生きていけるようになってほしいという気持ちが
あったみたいです。

でもそれでも、私は自分のことを分かってほしくて、筆談という
方法は崩しませんでした。
私はこれで生きていく、というのを分かってもらいたかったんです。

手話という方法もあったんですけど、さすがにそれを求めるのは
無理でしたしね。高齢だから。

それで頑張って筆談で話しかけていったら、
段々おじいちゃんおばあちゃんも受け入れてくれるようになって、
その時からお母さんやお父さんに

「今日は紙でいっぱい色んなことを話したよ、楽しかった」

と言うようになりました。

それを聞いて、少しは認めてくれたのかな?と思って嬉しかったです。


結果的には良かったかもしれないんですけど、
それでもいまだに後悔していることは、

声という方法をやめて筆談という方法で話すようになるまでの間、
おじいちゃんおばあちゃんと話さない空白の時間があったこと。

家に遊びに行っても黙ってばっかりで・・・
寂しい思いをさせたんじゃないかと思うんです。

あの時はすごく悩んでいたし、仕方が無かったといえばそれでおしまいになるんですけど、
それでも、寂しい思いをさせたことは変わらない。

これだけが、たった一つの後悔。


おじいちゃんが亡くなった時なんかはすごくこのことを後悔しました。
一時でも寂しい思いをさせたことが申し訳なくて。

私が生まれたときからずっと心配かけてばっかりいたのに、更に寂しい
思いさせちゃって。


だから、おばあちゃんにはもう寂しい思いをさせないようにしようと
思ったんです。

それでおじいちゃんの死後、おばあちゃんと同居を始めたんですけど、
今は自分が時間があるときはいつもおばあちゃんの部屋に行って
おばあちゃんとお茶を飲んだり一緒にテレビを見たりするようにしています。
もちろん、もう後悔はしたくないから、がんがん紙を使って話しかけています。
おばあちゃんも、
「やれやれ、メガネをなくしたらダメだね。」
と言いながらも話し相手になってくれています。笑


「いつまでも元気でいてほしい」と言うのは酷なことだと思っています。

昔は、おばあちゃんに「長生きしてね」とか「いつまでも元気でいてね」とよく言っていたんですけど、最近ではある意味、酷な言葉かな・・と思うようになったんです。

だってね、おばあちゃん自身、自分の年齢的にも体力的にも、いつまでも元気でいられる訳がないということはもうよく理解していると思うんですよ。

いつまでも生きているわけじゃない。
やはり、限りはある。

それだったら、それよりも残された人生はあとわずかなのだという
ことを自分たちがしっかり理解して、その上でわずかな時間をおばあちゃんが楽しんで生きていけるように考えること、これが大事なんじゃないかと思っています。


その上で、おばあちゃんが生きている間、残された人生が楽しいもので
あるように私も色々考えていきたいなと思っています。
相変わらず今も心配ばっかりしてて、私に「あまり心配かけないでよ」
なんて言ってますけど・・・笑

それでもやっぱり、心の中では、おばあちゃんができるだけ長く
元気で生きていられることを望んでいます。


長くなったけど、思いのまま書いてみました。
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